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オン・ザ・エッヂ

変化
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堀江貴文 他人に期待すぎるな言い切るワケ期待しないからこそねぎわられた時の喜びが大きい

IT業界を牽引してきた堀江貴文氏と、サイバーエージェント代表の藤田晋氏。数々の試練を乗り越えてきたふたりですが、ビジネスパーソンにとって重要だと指摘するのは才能でも、頭の良さでもなく「ハートの強さ」だといいます。リレー形式で語る共著『心を鍛える』から、一部抜粋・再編集してお届けします。大学生のときから「21世紀を代表する会社を創る」につながる理念を掲げていた藤田さんは、正直すごい。僕が起業をしたのは藤田さんの約2年前の1996年4月。彼より1年若い23歳のことだった。その頃の僕に、理念めいたものなんてなかった。「仕事がありすぎるから、やむなく起業した」という感覚だ。「時代の先端を走る」という気概を込めて、社名を「オン・ザ・エッヂ」(「危険と隣り合わせで」という意味)としてはいたけれど……。そんな起業の話からしていこう。個人のスキルが求められてる事に気が付いた20代「フィクス」でバイトをしていた時期。僕たちは時代の流れに乗り、ANAなど錚々たる大企業のホームページ制作も受注するようになる。当時、ホームページ制作のスキルを持つ会社は、ほとんどなかった。だから仕事には困らなかった。そのうちに、フィクスを介さず「堀江貴文個人」で仕事を請け負うようになる。最初は「データベース界の巨人」と称されるオラクルの仕事だった。ギャランティは、Webディレクターなど仲間2人と3分割したのだが、約1カ月の作業で90万円が手に入った。とはいえ、実作業を担当したのは、ほぼ僕1人。「個人のスキル」が求められ、それが評価されて対価までもらえたことで、僕は起業を強く意識するようになった。バイト先の上司から「俺の右腕にならないか」と打診されたのも大きかった。「サラリーマンなんてまっぴらごめんだ」と思った僕はもちろん断った。すると社長に「月給70万」というエサをチラつかされた。とはいえ、たった1件の仕事で90万円をゲットしていた僕が、釣られるわけがない(笑)。バイト先の上司から「俺の右腕にならないか」と打診されたのも大きかった。これからも楽しく仕事をするために、自分の会社を創ろうそれから僕は「会社の作り方」というノウハウ本を手本にして事業計画書を作り、登記作業も1人でこなした。創業時の仲間は、ほかに2人。当時つきあっていた彼女・有馬あきこさんと、駒場寮の先輩の松尾賢一さん。六本木3丁目の古びたビルの一室を借り、1996年4月23日、有限会社オン・ザ・エッヂを設立した。設立日から目まぐるしく仕事をしていたことを覚えている1つは、博報堂から請け負った電子年賀状。「お年玉付き電子年賀状」のシステムを作る仕事だった。このシステムを作った当時、今では常識となっている負荷分散も、まだ手探りの状態だった。サーバが落ちないように、「この部分は別のサーバにして」というノウハウを走りながら覚えていった。僕はこの電子年賀状につきっきりだったため、もう1つの案件はメンバーに任せていた。それは、大晦日に行われる小室哲哉ファミリーのイベントのネット中継だ。イベント当日、僕も会場に出向いていた。本番で何か起こったらシャレにならない。張り詰めていた僕の前に、2人の男性が歩いてきた。「なんだか、キラキラした2人だな……」疲れ果てた僕の目に飛び込んできたのは、ほかでもないマーク・パンサーさん。そして、あの小室哲哉さんだった。もちろん、一介の出入り業者だった僕が、小室さんと面識などあるわけない。でも、さすが人の心がわかる名プロデューサーである。「おっ、頑張ってるね!」小室さんは僕に声をかけてくれた。それまでの疲れがいっぺんに吹き飛んだ。こんな経験を積むうちに、僕は他人に期待しすぎることをやめた。いくらエキサイティングな仕事でも、対価をいくら払おうと、他人に裏切られることはある。そう割り切ることにしている。もちろん社会人としては、一度引き受けたことは業務としてきちんとやってくれないと困る。でも、逃げられることもあるのだ。期待していないからこそ、スタッフにバックレられても怒りの感情は湧かない。そして、期待していないからこそ、人からねぎわれるたときの喜びも大きいのだ

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